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東京高等裁判所 平成6年(ネ)855号 判決

主文

一  本件控訴を棄却する。

二  控訴費用は控訴人の負担とする。

事実及び理由

第一  当事者の求めた裁判

一  控訴人

1  原判決を取り消す。

2  被控訴人は、控訴人に対し、金一六五万円及びこれに対する昭和五七年一月一日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。

4  仮執行の宣言

二  被控訴人

主文同旨

第二  事案の概要

一  事案の骨子

本件は、控訴人(原審原告)が、昭和五六年八月一九日、被控訴人(原審被告、産婦人科医師)の経営する富田産婦人科医院(以下「被控訴人医院」という。)において、診療を受けたが、その受診の主要な目的は、当時控訴人が別の泌尿器科医院において精密検査のためレントゲン検査を受ける必要があったため、「妊娠の有無の診断」を求めることにあったところ、被控訴人が「妊娠していない」との診断をした結果、レントゲン検査を受けたが、その後、控訴人が当時妊娠していたことが判明したため、レントゲン照射が胎児に及ぼす悪影響を考慮し、妊娠中絶を余儀なくされたとして、被控訴人に対し、診療契約上の債務不履行に基づき、慰謝料一五〇万円、弁護士費用一五万円(計一六五万円)及びこれらに対する遅延損害金の支払いを求めた事案である。

二  争点

1  被控訴人が、昭和五六年八月一九日被控訴人医院において、控訴人に対してした診療(以下「本件診療」といい、当日された被控訴人の診療行為を「本件診療行為」という。)につき、被控訴人に診療契約上の債務不履行(不完全履行)があったか

(一) 本件診療の際、控訴人は被控訴人に対し、レントゲン検査が必要であることを告げる等して、妊娠の有無につき確定的診断を求めたか

(二) 本件診療において、被控訴人は、控訴人に対し、妊娠していない旨の確定的診断をしたか

(三) 本件診療における措置、診断等本件診療行為に不適切若しくは不完全な点があったか

2  被控訴人の本件診療行為と控訴人の妊娠中絶との間に相当因果関係があるか

3  本件診療行為につき、被控訴人に損害賠償責任があるか、あるとすればその損害の額

三  争点に関する当事者の主張

1  控訴人の主張

(一) 本件診療に至る経緯及び本件診療の内容

控訴人は、昭和五六年七月、当時新潟県立新発田病院(以下「新発田病院」という。)産婦人科に勤務していた被控訴人から診療を受けたことがあったが、その後腹痛や出血が続いたため、村上市にある中野泌尿器科医院(以下「中野医院」という。)で診療を受けたところ、同医院で更に精密検査のために腹部のレントゲン検査等が必要となり、同医院から妊娠の有無につき専門医診察を受けるよう指示された。そこで、控訴人は、たまたま被控訴人が産婦人科医院(被控訴人医院)を開業した当日である、同年八月一九日、被控訴人医院において、被控訴人に対し、右の事情、すなわち別の医院で精密検査のために腹部のレントゲン検査等をする必要があるので、妊娠の有無の診断を求める旨を告げて、本件診療を受けた。

仮に、被控訴人が、本件診療の目的が右のとおりレントゲン検査による精密検査を受けるための妊娠の有無の診断であることまでの認識がなかったとしても、控訴人は、本件診療に際し、被控訴人に妊娠の有無についての診断を求めたものである。

(二) 被控訴人の責任(債務不履行)

(1) 控訴人の求めた本件診療の目的が前記のとおり妊娠の有無であることからすれば、被控訴人としては、極めて簡易かつ低廉に行うことができ、しかも懐胎の有無の的中率が高い尿検査によるゴナビスライド法(以下「尿検査法」という。)を実施すべきであった。

尿検査法の右的中率は、懐胎期間に影響するところ、控訴人の懐胎時期は同年七月四日ないし八月二日前後であって、必ずしも明確ではないが、そのいずれであるにしても、本件診療の日において、既に懐胎後相当の日時が経過していたのであるから、同法の的中率は高いものであった。

(2) 被控訴人が、このように有効な尿検査法を実施しなかった以上、また、仮に尿検査法を実施しても、控訴人の妊娠の有無について確定的診断が得られない場合には、控訴人に対し、本件診療の目的に照らし、妊娠していない旨の確定的判断は差し控えるべきであった。

(3) しかるに、被控訴人は、尿検査法を採用せずに、かつ、控訴人に対し「妊娠していない」との誤った確定的診断を行ったものである。

(三) 相当因果関係

被控訴人は、前記のとおり本件診療の際控訴人から、他の医院でレントゲン検査等を受けるため、妊娠の有無の診断を求められたのに、適切な診療若しくは検査を行わなかったため、当時控訴人が妊娠していたのにも拘らず、妊娠していないとの診断をした結果、控訴人は中野医院において、レントゲン検査を受けてしまい、止むなく妊娠中絶の手術を受けざるを得なくなったのであるから、右誤診と妊娠中絶との間には相当因果関係がある。

(四) 損害

控訴人が、妊娠中絶を余儀なくされたことによる慰謝料は一五〇万円、弁護士費用は一五万円が相当である。

2  被控訴人の主張

(一) 控訴人の(一)の主張について

右主張中、被控訴人が、控訴人主張の日に控訴人を診療したことは認め、控訴人が中野医院でレントゲン検査の必要があったことは不知、その余は否認する。

本件診療に際し、控訴人の受診の目的は、異常出血の診療であり、他医院においてレントゲン検査をする必要上、妊娠の有無の診断を求めた事実はない。

すなわち、被控訴人は、控訴人から異常出血の訴えがあったので、問診及び内診を行ったが、出血の原因が明らかでなかったため、さしあたり、止血剤を投与して様子を観察することとした。妊娠の有無についての診断が主要な目的であればこのようなことは行わなかった筈である。

(二) 控訴人の(二)の主張について

右主張は否認する。

尿検査法は、本件診療当時において、控訴人が主張するような妊娠の有無を判定する上で、的中率の高いものではなかった。控訴人の本件診療の目的が右のとおり異常出血の診療であったことからすれば、この段階で、尿検査法を実施しなかったことに、何ら過誤はない。

前記のとおり、本件診療において、被控訴人は、その時点で異常出血の原因が分からなかったので、前記のような措置をしたのであるから、控訴人に対し「妊娠していない。」というような確定的判断はしていない。控訴人が治療の過程で控訴人から妊娠しているかどうかとの問いに対し、妊娠はしていないと答えたとしても、これは確定的判断ではない。

(三) 控訴人の(三)の主張について

右主張は否認する。

本件診療の目的は前記のとおり、出血の治療にあり、妊娠の有無の判断にあったのではないから、たとえ被控訴人が、右治療の過程で妊娠はしていないとの所見を述べたとしても、このことと妊娠中絶との間には、相当因果関係はない。

(四) 控訴人の(四)の主張について

右主張は争う。

第三  理由

一  争点に対する判断の前提となる事実について

まず、争点に対する判断をするに先立ち、その前提となる事実関係について検討するに、〈書証番号略〉、原審における原告(控訴人)及び被告(被控訴人)各本人尋問の結果に弁論の全趣旨を総合すると次の事実が認められる。

1  控訴人は、昭和三二年に生れ、昭和五三年九月に長男を出産したが、同年二月頃、当時新発田病院産婦人科に産婦人科医師として勤務していた、被控訴人の診療を受けたことがあった。

控訴人は、昭和五六年七月六日頃右新発田病院で、被控訴人から避妊リングをはずすための施術を受け、その後、同年八月三日頃にも同病院で、腹痛などを訴えて被控訴人の診療を受けたが、その際の被控訴人の診断は、「子宮内膜炎」というものであった。

2  被控訴人は、その後新発田病院を退職し、同年八月一九日、自ら産婦人科医院(被控訴人医院)を開設したが、同日控訴人は、かねてより陰部から相当の出血が続いていたので、同医院に赴き被控訴人の診療を受けた。

その際の控訴人の主訴は、過多月経ないし性器からの出血であり、被控訴人は、控訴人に問診及び患部の見分(内診)を行ったが、腹痛、吐き気、嘔吐等の症状はなく、子宮が前屈であるほかは、その大きさ、硬さにおいて正常であり、陰唇、膣部等に格別の異常はなく、これらを総合した所見は、「止血剤を投与することで、しばらく様子を観察する。」というものであった。そこで被控訴人は、そのことを控訴人に伝え、止血剤(アドナ及びトランサミン)四日分を控訴人に交付した。

控訴人は、右診察の際被控訴人に妊娠の有無を尋ねたが、被控訴人は、前記のような問診及び内診の結果からは、妊娠の兆候が現れていないものと判断し、「妊娠はしていないようである。」との趣旨の説明をした。なお、被控訴人は同日、控訴人について妊娠の有無を判定するために、超音波検査や尿検査法などは実施しなかった。

3  控訴人は、本件診療の日よりかなり以前から、陰部からの出血が続いていたので、本件診療の数日前に、泌尿器科が専門の中野医院において、主として泌尿器関係について診察を受け、更に、前記のとおり被控訴人の本件診療を受けた後、中野医院において、精密検査のため腹部のレントゲン検査を受けた。

控訴人は、その後の同年九月上旬頃、遠山産婦人科医院で診察を受けたが、その際妊娠三か月程度であることを知らされた。

4  控訴人は、同年九月九日被控訴人医院に行き、被控訴人に対し、右のとおり中野医院において腹部のレントゲン撮影を受けたこと及び遠山産婦人科医院で妊娠していると診断されたことを伝え、レントゲン検査を受けたことが胎児に及ぼす影響を尋ねた。

被控訴人は、控訴人に対し、妊娠初期の段階で妊婦が腹部にレントゲン照射を受けた場合に胎児に悪影響があることを説明すると共に、控訴人の話によれば中野医院の検査において相当多量のレントゲン照射を受けたということなので、妊娠の継続は心配であるとの趣旨の説明をしたところ、控訴人も妊娠中絶をすることに決し、被控訴人にこれを依頼した。そこで、被控訴人は、同月一四日被控訴人医院において、控訴人の妊娠中絶手術を行い、同月二一日から同年一一月八日にかけて四回、予後の治療を行ったが、その後控訴人に対する診療は行っていない。

5  控訴人は、右妊娠中絶手術を受けた後に頭部脱毛症に罹った。

被控訴人は、同年一二月一三日頃、控訴人から突然電話で、被控訴人の妊娠中絶手術が不適切であったために、円形脱毛症に罹っているので、その責任をとって欲しい、との要求をされ、次いで、同月三一日頃控訴人の夫からも同様の要求をされたが、被控訴人は妊娠中絶の手術が不適切であったとは考えられない旨返答した。控訴人と被控訴人との間で、その後数回電話でのやり取りがあったが、その以外に格別の交渉がなかったところ、平成元年四月に至って、本訴が提起された。

本件は当初、前記「事案の骨子」に記載の請求の他に、頭部脱毛による慰謝料として、一〇〇〇万円の請求がなされていたが、この請求は、後に取り下げられた。

二  争点に対する判断

1  本件診療における被控訴人の債務不履行の有無について

(一) 本件診療において、控訴人が被控訴人に対し、いかなる診療を求めたかについてみるに、〈書証番号略〉(被控訴人医院の診療録)の記載及び控訴人にはかねてより陰部から相当の出血が続いていたとの前記認定の事実に照らし、控訴人がこの出血について被控訴人に診療を求めたことは明らかであり、この認定を左右する証拠はない。

(二) ところで、控訴人は、本件診療の際に、被控訴人に対し、別の医院で精密検査のために腹部のレントゲン検査等をする必要があるので、妊娠の有無の診断を求める旨を告げて、本件診療を受けた旨主張し、原審における原告(控訴人)本人尋問の結果中には、これに副う供述部分がある。

しかしながら、〈1〉控訴人の右供述部分は、それ自体明瞭性を欠くものであること、〈2〉一般に、胎児がレントゲン照射を受けることは、極力避けられなければならないことは周知の事実であること及び前記認定のとおり被控訴人がこの点について控訴人に説明した内容とを併せ考えると、仮に、被控訴人が控訴人から、腹部のレントゲン検査する必要があると告げられていたとすれば、本件診療の態様、被控訴人の診断の内容及びその説明は、前記認定の事実とは大きく違ったものになっていたことは推測に難くないこと、〈3〉若しも、控訴人が、被控訴人に前記のことを告げて妊娠の有無につき診断を求めていたのであれば、その後妊娠していることが判明し、被控訴人にレントゲン検査の影響を尋ねた際若しくは妊娠中絶をする段階で、被控訴人に対し、その診断(誤診)につき抗議をするか、抗議はしないまでも、不満や苦情を述べ、或は誤診に至った事情について説明を求める等するのが極めて自然であると考えられるところ、控訴人が被控訴人に対し、このようなことをした形跡がないこと、〈4〉その後控訴人及びその夫が、被控訴人に対し、前記認定のとおり、脱毛症になったことが被控訴人の妊娠中絶の手術が悪かったとして抗議をしているが、本件診療に関する誤診の点を問題にした形跡はなく、却って、このことが正式に問題にされたのは、本件診療後七年余を経過した後にされた、本件訴えの提起以降である可能性が高いのである。

以上の諸点に〈書証番号略〉並びに原審における被告(被控訴人)本人尋問の結果を併せ検討すると、原審における原告(控訴人)本人尋問の結果中前記供述部分は、たやすく信用することができず、ほかに控訴人の前記主張を認めるに足りる証拠はない。

(三) 次に、控訴人は、仮に被控訴人が右のとおりレントゲン検査等による精密検査を受けるために、妊娠の有無の診断を求められているとの認識がなかったとしても、控訴人は、本件診療に際し、被控訴人に妊娠の有無についての診断を求めたものであるから、尿検査法を実施しすべきであった旨主張する。

しかし、控訴人から、前述したレントゲン検査をする必要上妊娠の有無の診断を求めることと、前記認定のとおり、本件診療の際控訴人の述べた主訴である性器からの出血に対する診療の課程で妊娠の有無を尋ねられる場合とでは、被控訴人の診療行為の内容、したがってその診療行為に基づく総合所見及びその開示(説明)内容とは大きく異なるものであることは、既に述べたところから明らかである。

ところで、本件診療の段階において、控訴人に尿検査法を実施していれば、控訴人の妊娠の有無がほぼ正確に断定できたと認めるに足りる証拠はない。また、本件診療の際控訴人の述べた前記主訴及び被控訴人が行った前記認定の問診及び内診に照らし、この段階で、尿検査法や超音波による検査等を行わなかったことが、不適切であったと解すべき事情は見当たらない。

(四) 控訴人は、本件診療において、諸種の検査がされていない以上、被控訴人は控訴人に対し、妊娠していない旨の確定的判断は差し控えるべきであった、と主張する。

本件診療の当時、控訴人が妊娠していたことは前記認定のとおりであるから、被控訴人が、本件診療の際に妊娠の有無につき、前記認定のような説明をしたことは、結果として過った診断をしたことになる。そして、当日の診療行為が前記認定のようなものであり、妊娠の有無を判定する諸種の検査を実施したわけではないのであり、かつ、仮にそのような検査をしても、妊娠初期のこの段階において、妊娠の有無を正確に判定することは困難であった可能性が高かったことからすれば、被控訴人は、控訴人に対し、そのような事情を説明をしておくことが、適切であったということができる。

(五) 以上の諸事情を併せ考えると、被控訴人が、本件診療において、控訴人の主訴に基づいてした、控訴人に対する問診及び内診並びにこれらの結果に基づく総合所見として、止血剤を投与することでしばらく様子を観察することとした判断は、前記妊娠の有無についての説明部分を除き、その措置及び対応に不適切な点は見当たらないが、妊娠の有無に関する部分の説明については、適切を欠いていた、というべきである。

2  因果関係について

(一) 前述のとおり、被控訴人は、本件診療の際控訴人から、他の医院でレントゲン検査等を受けるため、妊娠の有無の診断を求められたものとは認められず、また、仮にそのような診断を求められたのであれば、被控訴人の診療の態様及びその総合所見の説明も著しく異なっていたものと解されること、そして、控訴人が右のようなことを告げて被控訴人の診断を求めることは極めて容易なことであったのである。

これらのことからすれば、被控訴人は、本件診療時において、控訴人がその直後に他の医院でレントゲン検査を受けるとの認識はなかったものであり、また、被控訴人がこのようなことを予見することも甚だ困難であったというべきである。

(二) そうすると、他に特段の事情がない限り、たとえ被控訴人が前記のとおり控訴人を診察した際、控訴人から妊娠の有無を尋ねられ、「妊娠はしていないようである。」との説明をしたことと、控訴人がその後中野医院において、腹部のレントゲン検査を受け、更にその後妊娠の事実が判明した結果、妊娠中絶を行うに至ったこととの間には、相当因果関係がないものと認めるのが相当である。そして、この判断を左右する特段の事情も見当たらない。

三  結論

以上のとおりであるから、控訴人の本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく、理由がない。したがって、本訴請求を棄却した原判決は、その結論において相当である。

よって、本件控訴を棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九五条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 小野寺規夫 裁判官 清野寛甫 裁判官 飯村敏明)

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